「北の大火」詳細
「北の大火」とは明治42(1909)年、大阪市北区一帯を焼き尽くした大火災です。
7月31日午前4時20分に出火し、鎮火したのは翌8月1日午前4時頃、実にまる一昼夜燃え続けたこの火災は「天満焼け」あるいは「北の大火」と呼ばれています。
大火の概要
明治42(1909)年7月31日午前4時20分、大阪市北区空心町2丁目70番地メリヤス製造業玉田庄太郎方より出火した火災は、まる一昼夜燃え続け、鎮火できたのは翌8月1日午前4時頃でした。その延焼範囲は絵葉書の画像にもありますように、北区一帯、天満地区から福島地区に至るまでという、まさに大火災です。被害状況は、焼失戸数11,365、罹災地面積1.2平方キロにおよび、橋梁21が焼失または甚大な被害を受けています。
当時、大阪府警から内務大臣に提出された火災広報によりますと、負傷警察官吏26名、消防組員90名(軽微なる負傷者は「ほとんど全部」)、人民焼死3名、火災中病死3名、負傷者578名、であったとされています。
火災発生当初、北警察署は配下の消防屯所員(当時の消防隊は警察署配下にありました)に出動を命じましたが、対処できず市内各警察署の消防隊の応援を求めました。また、郡部からの応援、さらに高崎大阪府知事からの軍第4師団への応援出兵要請がおこなわれ、それに応える形で、第8、37連隊が出動、さらに大阪砲兵工廠の消防夫も動員されました。加えて騎兵第4連隊、輜重兵第4大隊、大阪衛戍部隊、高槻工兵第4大隊なども出動しており、官と軍の共同消火活動がおこなわれました。
大火時の気象状況
火災が想像を遥かに超える大規模になった要因としては、当時の気象状況をあげることができるでしょう。出火前から続いた晴天で市内は乾燥しきっており、さらに風速8m以上の東風が吹く中、火災は発生しました。火災発生後風速はますます強まり31日午後10時には風速19.4mを記録しています。
当時の公文書が残されており、現在でも申請により閲覧可能となっています。
消火活動
北区天満の空心町で発生した火災は、西南方面へと燃え進みます。天満宮の北から堀川へ燃えていくわけですが、その過程、天満宮への延焼を防ぐべく多くの人々が力を振り絞りました。
侠客小林佐兵衛もそのひとりです。明治期の消防組織発足のおり、府知事から消防組織の北区の頭を任され「⽕消し壺佐兵衛」とも呼ばれた人物であり、北の⼤⽕の折には、79歳の⽼⾝ながら天満宮に駆け付けて防⽕活動の先頭に⽴ち、焼けるのを防いだのです。
西へと進む火勢は午前11時30分、堀川筋へ迫り、消防組織はここを第一防火線としますが突破されます。次いで道路幅の広い梅田新道を第二防火線とし、やがて午後5時、火勢は梅田新道に迫りました。
ここで陸軍は爆弾を使用した爆風消火を提案したようです。
陸軍の消火思想は所謂破壊消防であり、これは江戸時代から続く伝統的な消火方法でした。一部大阪鎮台には消防ポンプが用意されてはいましたが、基本的には「破壊」による延焼食い止めが基本のようでした。それに対して大阪市側は早くから消火ポンプを導入するといった「消火」活動に主眼を置いていました。このような思想の違いからでしょうか、しばしば軍と大阪市の間で消火手段に対しての意見が割れます。
梅田新道での爆風消火(爆弾の破裂に伴う強風により消火を試みる)案に対して、その危険性(確立された消火技術ではありませんでした)を訴え中止させたのは大阪市の山下市長でした。
また、火勢は堂島川沿いへも広がります。炎の行く手には大阪控訴院がありました。ここでも陸軍は隣接する西天満尋常小学校を破壊し控訴院への延焼を防ぐ提案をおこないます。しかし、山下市長の言い分は、小学校は市の施設ではあるが実際は区の予算によって建設されたものであり、市の一存で破壊を決定できない、というものでした。
当時の行政組織については詳細に理解しているわけではありませんが、ここは市長の決断が欲しかったところです。これが原因かどうかはなんとも言えませんが、結果的に午後7時50分、大阪控訴院は全焼します。
さて一方、梅田新道の第二防火線は火勢に突破され、北新地が炎に包まれます。芸妓、娼妓たちは逃げ惑います。また家財をも避難させるため、新地を流れる蜆川(曽根崎川)に舟を出し下流へ輸送しようとしますが、それほど大きな川ではありませんので舟で溢れることになりました。絵葉書にはそのような状態の蜆川の姿が残されています。
鎮火へ
北新地を舐めた火勢は午後9時過ぎ、第三防火線の出入り橋付近も突破し、そこにあった大阪府立堂島高等女学校(現 大阪府立大手前高等学校)、大阪市立大阪高等商業学校(現 大阪市立大学)も焼け落ちます。
さて、福島地域へ延焼した炎は野田方面は燃えるものがない(田園地帯)ため弱まり、堂島川方面は第四防火線としての懸命な消火活動と相まって、福島紡績(或いは日本紡績)の煉瓦塀に阻まれ、8月1日午前4時、ついに鎮火します。
絵葉書にはこの付近、通称「焼けどまり」を写したものがあります。奥に写っている建物が日本紡績かと思われます。ただ、具体的に焼け止まったといわれる煉瓦塀については日本紡績とするものと隣接する福島紡績とするものと二種類の記録が残されています。「新修大阪市史(大阪市史編纂所)」では福島紡績としていますが、わたしも、当時の地図などから推測して福島紡績が正しいのではないかと考えています。
それから
「北の大火」は鎮火ですべてが終わったわけではありません。後の救援活動も大きく取り上げるべきです。しかし、絵葉書蒐集という中で、避難所関係の絵葉書が出てきません。一枚でも見つけることができれば是非蘊蓄してみたいものです。そのための資料は集めています。
また、「北の大火」にまつわる様々なエピソードも集めました。別項で紹介しております。よろしければ読んでやっていただければと思います。