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大火義援救護物資横領事件について

​ -伊藤晃という人物-

「北の大火」は非常に大きな災害であったため、鎮火後も救援・救護活動は続きました。多くの義援金や救護物資が大阪に集められたのですが、ここで一大横領事件が発生し、大阪市の屋台骨が揺らぎます。

大阪高等商業学校火災後の惨況.jpg
義援物資横領事件: About

大火義援救護物資横領事件とは

 北の大火は非常に大きな災害であったため、鎮火後も救援・救護活動は続きました。多くの義援金や救護物資が大阪に集められたのです。内、救護物資については梅田や芦分(あしわけ:福島区野田)の倉庫に保管されていたのですが、その後、市立大阪高等商業学校跡地に中央倉庫が建てられ、一括して保管、および被災者への配給が行われることになりました。

 明治42(1909)年9月4日、梅田、芦分両倉庫の機能を集約すため、この地へ建てられた中央倉庫に、その責任者として大阪市役所検査係主任書記、伊藤晃を筆頭に、同じく検査係書記であった安藤隆造、田村重成、両名がその任に着きました。

 この中央倉庫を舞台に一大横領事件が発生し、大量の義援物資が伊藤晃を中心とした一派によって横流しされたのです。このことは当然市民の怒りを買い、大阪市役所の屋台骨を揺るがすことに繋がっていったのでした。

 北の大火の公式記録ともいうべき「大阪市大火救護誌(明治43年 大阪市編纂)」では山下市長、藤村助役の勇退により世論を鎮静したと記述されており、同書には市長ならびに助役の退職申立書の文面が掲載されています。その内容は、以下のとおりです。

・市長退職申立書
 「本市北区大火罹災者救護寄付物品取扱担当吏員より不正の行為ある者を出し、延て(ひいて)一般世上の物議をかもすに至らしめたるは不明不徳の致す所。よってその責を負いここに退職申立候也」
 十二月十五日 大阪市長 山下重威

・助役退職申立書
 「拙者儀就任以来市吏員の統一を図るを得ざるのみならず北区大火罹災者救護寄付物品担当吏員より不正の行為ある者を出し延て(ひいて)一般世上の物議をかもすに至らしめたるは不明不徳の致すところにて、到底其職に堪えざるを自覚しここに退職申立候也」
 十二月十五日 大阪市助役 藤村守壽

 しかし、大阪市が編纂した記録からだけではこの事件の背景を正確には掴むことはできないかもしれません。どうしても当時存在した大阪市政の欠陥に目を瞑ることができなくなるのです。

 それは実は大火発生前から現れていた大阪市政の乱脈であり、そしてそこに目を向けると助役の退職申立書には「含み」を感じざるを得ないのです。

市長・助役退職申立内容.JPG
義援物資横領事件: 私について

横領事件の発覚

 明治42年12月10日、大阪毎日新聞紙上に「市吏員の免職」、大阪朝日新聞紙上には「腐敗せる大阪市役所」という記事が載ります。伊藤の犯罪が一斉に報道されたのです。そして翌11日の紙上には発覚と逮捕に至る経緯、およびそのきっかけが匿名の投書によるものであったことが明らかにされていました。

 すなわち12月8日、大阪市役所有志の名を以ての投書が警察本部および各新聞社に送られたのです。

「大阪市役所の乱脈を告ぐ。三日前、検査係主任伊藤晃は休職となれり。彼が北区火災の寄付物を取り扱う救護団の事務であり、金二千円余の大金を私せるによるものなり。普通なれば解職となり刑事問題となるところなれど藤村助役に弱みあるを以て、伊藤を解職したり刑事問題とすれば彼が何も可も語るを恐れてなり。

 藤村はいろいろの名義をつけてこの二三カ月の間に月給のほかに二千円余りの大金を手当てとして取れ居れり。また彼の一味なる秘書係主任の大谷は手当として月給のほかに毎月百円余りを取りこのほかにまだ交際費の名義にていろいろと毎月大金を取れり。助役の藤村はかかる無法の事をなし居り。伊藤は検査係主任としてこの秘密を熟知せるをもってこれを他に語られるを恐れて大罪を犯したる伊藤を解職ともせずまた刑事問題ともせず休職とせしなり。またこのことを他人に知らるるを恐れて藤村は伊藤の後任に自分の味方の伊佐某をあてたり。伊佐は一昨年京都大学を出たばかりの男でまだ主任になる丈の価値もなき男なるに藤村はこれを主任として恩を与えて自分の無法を今後もするつもりなり。市役所の乱脈は言語道断なり。云々」という内容で、伊藤晃の横領と藤村助役の公費私的流用を訴えるものでした。
 これより先、大阪府保安課(警察)ではすでに種々の風評を耳にしひそかに取り調べに着手していたようでしたが投書を契機に大阪地方裁判所に打ち合わせの上、警察側から木原保安課長、赤埴(あかはに)警部ら刑事数名と裁判所より西内、濱田両検事が検挙に努め、伊藤晃ら四名を拘引、および家宅捜索により有力な証拠物件を押収し、赤埴警部により12月10日明け方まで尋問し罪状を自白させた、という経緯でした。

 先に言っておきますが、報道を読む範囲で様々な人物が登場します。が、ほとんどの人物が「おかしい」です。それは大阪市側も警察側でさえもそのように言えます。そのあたりは別項になるかもしれませんが、追々ご紹介できればと思います。

 それにしても告発文にも書かれていますが、大阪市の乱脈とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。また告発文が出された背景とはどのようなものなのでしょうか。

 それについては後述しますが、まずは首謀者伊藤晃とその一派について見ていきたいと思います。

義援物資横領事件: 私について

首謀者 伊藤晃という人物(およびその一派について)

 明治時代の報道を読んで一番に感じることは「個人情報? なにそれ? 美味しいの?」ということです。良いことではないのですが、現代において調べたいことがあった場合、大変に助かることも事実です。

 伊藤晃の本籍は石川県江沼郡大聖寺町でした。出生がこの住所地であったかは不明ですが、石川県の出身であったのは間違いないようです。族称(現代においては差別につながるという理由で墨塗になることも多い部分ですが)は士族、つまり武家の出であったようです(当時の人材について調べる場合、士族であるかどうかはその生い立ちの背景を探るのに貴重な要素だと思います)。

 ※伊藤姓はおそらく養子であり、本姓は山本であると思われます。その理由は別項で述べたいと思います。

 中学(旧制)卒業までは地元に居ましたが、中学卒業後に、東京美術学校へ入学、しかし中途退学しています。ちなみに彼は宝生流という流派の謡曲に堪能であり、副業として「藤原梅雪」名義での謡曲師匠でもありました。当初は文化、芸術により身を立てようと考えていたのかもしれません。しかしなぜか美校を中退し、法学を志して法政大学を卒業します。その後台湾民生局属官(公務員です)となりますが、まもなく辞職し、実兄である中村修永(会計検査院第一課長(当時、従五位勲四等高等官三等))の縁故で会計検査院属官となります。しかしここも間もなく辞職することになります。横領事件後に妻である隣子(或いは りん)が記者に語ったところによると、新橋の芸妓に入れ込み二千円ほどの大穴をあけてしまった伊藤は実兄の印鑑を偽造し高利貸しから借金をしたところ、検査院へ執達吏(強制執行などを行う役人)が来る騒ぎになり発覚し免官になった、という経緯であったとのことです。
 現代ならこの時点で人生詰んでいるのですが、伊藤はその後、神戸に移り住み謡曲の師匠をしながら、どういうわけか神戸市の会計課に潜りこんでいます。そしてこの神戸にあった料亭「常盤花壇」の仲居であった「お辰」と出会います。(因みに「常盤花壇」は有名な温泉料亭であり、経営者の前田又吉という人物は、京都河原町御池に常盤ホテル(現在地京都ホテルオークラ)を開業(明治23年)しています)

 伊藤の妻隣子によれば、伊藤はお辰に入れ込み神戸市役所の金を使い込み、あわや入獄というところで内々に処理してもらい(もちろん退職ですが)、大阪に流れてきたというストーリーのようです。(神戸時代のくだりはお辰との出会いは事実ですが、神戸市役所をくびになったあたりは流石に... とも思いましたが、なかなかどうして、決して作り話ではないのではと考えています)
→本記事を挙げた後、明治42年12月11日付神戸新聞から神戸市役所経理課時代に横領を行っており、内々に処理(弁償および不足分は欠損処理として)のうえ免職となった、という記事を発見しました。横領事件は英国ノーエル提督歓迎費云々ということですので、おそらく明治38年10月の英国東洋艦隊の来航時の出来事であるかと思われます。この出来事を確認したく神戸市文書館の資料を検索し、かつ問い合わせも行いましたが、明治38年当時の神戸市人事情報等の資料は現存していないようでした。神戸市文書館の担当の方はずいぶんと調べてくださったようで本当にありがたく思っています。(2020.08.01追記)

 このような経歴ではありましたが、人材不足の大阪市(これは大阪が商人の町であり、武士階級出身の教養人が不足していたという背景があるようです)は彼を雇用します。

 明治42(1909)年12月10日付大阪毎日新聞によると、神戸時代、謡曲の師匠をしながら、たまたま同郷人であった大阪市会議員、吉田長敬および植木喬両の周旋により明治39年9月に大阪市役所検査係次席として任用されたとありました。この吉田長敬という市会議員は、後でも少しだけ名前が出てきますので、伊藤の大阪市役所就職にあたりなんらかの縁故があったのは間違いないと思われます。(また神戸市を解雇された事情が表沙汰にならなかった、という理由もあるようです)

 余談になりますが、大阪では東区十二軒町二十番地に居住し「藤原梅雪」の看板も出ていたそうですから、謡曲も教えながらの生活であったようです。奇しくもこの住所の二ブロック北には北の大火の火元である玉田庄太郎が身を寄せていた妻の実家がありました。当然玉田のもとで起きていた嫌がらせなどの騒ぎも知っていたでしょうが、どのように感じていたのか興味があるところです。また、大阪では神戸で出会った「お辰」を妾にし子供ももうけています。辰は大阪市南堀江三番丁で実父と共に暮らしていたようです。この辰を囲う費用も彼の横領の一因になっています。

 ここまででも伊藤晃という人物には常に影が付きまとい、同時にいやらしい強かさを感じるのですが、実はこれで終わったわけではありませんでした。検査係次席となった伊藤ですが、ほどなく上司転勤に伴い主任に昇格します。しかし明治41年市営電鉄開通式の折、酩酊したうえで某氏(上官であったと隣子は語っています)を殴打し免官となります。免官になったのです。大事な事なので二度言いました。ここで切っておけば歴史は変わったかもしれないのですが...
 なんと、市会議員吉田長敬のとりなしで再度、月給45円で復職したと伝えられています。ただしこの件は新聞報道のみでの情報です。当時の大阪市公報を含め種々の資料を探りましたが、その事実を発掘することはできませんでした。しかし... 事実でないとも言い切れないのです。伊藤晃に関する公的な資料はあまりにも少ないからです。意図的に記録を残していないのかと勘ぐってしまうほどです。


 脱線しました。
 そして明治42年7月31日を迎えます。午前4時頃発生した火災は大火災となり大阪北部を焼き尽くすと共に多くの罹災民を生み出したのですが、その対応の為、臨時救護団が組織されるなり、続々集まる支援物資の管理のために伊藤晃は臨時救護団検査係主任兼倉庫係長に任命されたのでした。
 この時点で、いくら明治時代で縁故がまかり通った時代であっても流石に「信じられない」と思いました。一度はくびになった人物(少なくとも問題は起こしていたはずです)に補職が付くとは... 思うに実兄中村修永の存在があったのかもしれませんが(中村修永については後で触れてみようと思います)、「影」どころか「闇」をさえ感じたのでした。しかしこの当時、大阪市役所全体が文字通りの「闇」に覆われていたので、これくらいは些末な事であったのかもしれません。そのことも後述します。
 やがて、横領が疑われるようになり、伊藤は11月29日更迭、12月3日休職、次いで12月9日免職となっています。
 「天網恢恢疎にして漏らさず」

 悪事は必ず露見する... というほど単純な事ではなかったようですが、それを述べる前に伊藤の仲間について記しておきたいと思います。

 仲間の一人に安藤隆造という男がいました。職名は大阪市役所検査係書記であり、主任である伊藤の部下でもありました。本籍地は大阪府北河内郡門真村、どこの田舎かと思いきや今の門真市、パナソニックの企業城下町です。その地で生まれ事件当時は大阪市北区本庄仲の町四百四十四番地四に居住していました。41歳(おそらく数え年)という報道ですので37歳であった伊藤より年長であったようです。
 もう一人が田村重成38歳。安藤と同じく大阪市役所検査係書記であり伊藤の部下になります。本籍地は和歌山県和歌山市本寺町であり、事件当時の居住地は東成郡住吉村上の町百六十二番地、現代の住吉大社周辺の地域になります(当時は大阪市域ではありませんでした)。

 さらに中村市松という人物がいます。横領物品をさばく過程で仲間になった市松は仲仕(なかし)でした。仲仕というのは簡単に言うと運送業になるようですが、辞書で調べますと、荷物をかついではこぶ人夫、と記されていました。働く場所により蔵仲仕、浜仲仕、鳶仲仕、沖仲仕などの種類があったとされています。彼は西区北堀江三番町に居住しておりましたが、横領物品を金に換えることについてずいぶんと活躍しました。

 そしてもう一人、伊藤の妾、辰(たつ)の実父である平松徳兵衛を忘れてはなりません。大阪市南堀江の仲仕頭でもあった徳兵衛は、伊藤の推薦で救護団倉庫物品出入担当者に採用されています。中央倉庫の出し入れに関しては実務上の責任者でもあり、仲仕頭としての立場を使い多くの人足を切り回したようです。

 彼らを使い義援物資の横領はおこなわれました。

義援物資横領事件: 私について

義援救護物資横領の手口

 伊藤晃は部下である安藤、田村両名を抱き込むと、寄贈される米俵に対しては「米俵の」数だけの領収書を発行しました。本来寄贈される「米の」量に対しての受け取りが必要であるところ、そのように行うことで寄贈米の量をあやふやにしたのです。
 また罹災民への分配に際しては一斗の袋に八升の白米を入れて分配しました。混乱のもと誰も帰ってから計ったりしないことを知っていたのです。また七升入りの袋には六升くらいを入れるよう安藤、田村に指示し、両名はさらにその部下たちにも指示しました。結果、白米は大量に余ることになり、伊藤はこれを中村市松に買い取らせました。推測ですが、中村市松を紹介したのは同業者でもあった平松徳兵衛であったかもしれませんが、この点は報道にはありませんでした。ある事情から徳兵衛に確認することができなかったからだと思われます。

 さて、中村はこの米を市会議員吉田長敬の兄西区北堀江三番丁三十八番地運送店吉田長祥方の倉庫に預けながら他へ売りさばいていました。

 吉田運送店は伊藤を神戸でスカウトした大阪市会議員吉田長敬の兄が経営する運送店の所有ですが、どうやらその兄である吉田長祥自身はこの悪事には関わってはいないようです。伊藤と吉田長敬議員との縁になるものか、はたまた中村市松が選択した相手がたまたま吉田運送店だっただけなのかそれはわかりません。いずれにしても吉田長祥も伊藤に騙された被害者になったからです。
 吉田運送店の倉庫には米以外にも沢山の横流しされた義援物資が保管されていたわけですが、そのような中で、伊藤は中央倉庫関連での人夫雇用と運送を吉田長祥に請け負わせます。伊藤は救護団上司の許可を受けず勝手に「中央倉庫主任」なる名称を詐称し契約書を作成し、吉田より保証金として二百円を受け取りそれを着服します。また人夫を雇い入れたことにして中村市松らの複数名義へ空支出を数回行い数百円を横領しました。
 さらに梅田駅駅長らを慰労会と称し招待し、必要金額以上の金額を大阪市へ請求する、などということも行っていますが、さらにセコいのは、救護初期の混雑を利用し、支給される弁当ではなく被災民のための炊き出しを食べ、さらに寄贈された缶詰その他の食品を勝手に食べておきながら弁当屋の名義で百三十円を大阪市へ請求しているのです。

 まさにやりたい放題で、帳簿の改竄、雇人の負傷治療費の水増し請求をはじめとして、寄贈品の衣類雑品を不潔などの名目で配布せず、中村市松へ売却し多額のあぶく銭を得て曽根崎新地のバラック小屋(新地は大火で焼けてしまいましたがバラックで営業を再開していたようです)の茶屋酒に酔いつぶれながら芸妓遊びを繰り返していたのです。(妾の辰への生活費もここ(横領で得たあぶく銭)から捻出していたようです)

 伊藤が好き勝手やっていれば当然部下の安藤、田村も好き勝手にやります。

 二人の姿はしばしば北堀江の茶屋で見かけられたそうです。場所をセッティングするのは中村市松の仕事であったようですが、ひとつのエピソードが大阪毎日、大阪朝日両紙に載せられていました。明治42年11月5日の夜、安藤、田村の姿は北堀江のお茶屋にありました。ふたりについた娼妓は、初雪(20)と小若(23)という二名であり、初雪はなかなかの美人であったのに対し、小若はイマイチであったといいます。さて、どっちがどっちに付くかということで上席の田村へ小若、安藤へは初雪と決まったところ 田村は激怒し、皿小鉢を投げつけ安藤を殴打し、さらに初雪(美人の方)の胸倉をつかみ廊下へ突き転がして帰宅したというものです。
 安藤より田村の方が偉かったのかという感想もさることながら、小さい、あまりにも小さい男だ。伊藤の金魚の糞としての面目躍如です。

 さて、このような手口で横領が行われていたのですが... バレないわけがない! いくら明治時代でもこんなに派手にやっていてバレないわけがない。いや、バレてもなんとかなると思っていたのか、バレても大丈夫、握りつぶせると考えていたのか...

義援物資横領事件: 私について

横領事件と大阪市派閥抗争

 前述しましたが、この横領事件が明るみになったのは「大阪市役所有志」による「告発文」がきっかけでした。とはいえ、横領そのものはそれなりに認知されていたものと思われます。「告発文」はきっかけにすぎません。伊藤を巡る人事の動きがそれを物語っています。

 「大阪市大火救護誌」によれば、経費の使途に不信を感じた山下市長は、11月29日、突如、伊藤晃に倉庫係主任の職を解き、云々とあります。

 大阪市が編纂した史料ですのでボカシているようですが、別段、山下市長の英断でも何でもないでしょう。おそらく情勢から隠し通せなくなってきたと判断したものと思われます。それでもなんとかうやむやにしたかったのかもしれません。伊藤を更迭から休職へと処分します。

 そこで告発文の登場です。12/8の告発ですがおそらく12/7に書かれたものと思われます。

「…三日前、検査係主任伊藤晃は休職となれり。彼が北区火災の寄付物を取り扱う救護団の事務であり、金二千円余の大金を私せるによるものなり。普通なれば解職となり刑事問題となるところなれど藤村助役に弱みあるを以て伊藤を解職したり刑事問題とすれば彼が何も可も語るを恐れてなり…」と続きます。

 伊藤の横領を告発するだけではなく、ターゲットは藤村助役になっているのは明らかですが、大阪府警および新聞社へ出された告発文は強力でした。後に引けなくなったかのように、市は伊藤を解職し、同時に府警が伊藤を拘引します。

 当時の大阪市政は、はっきり言ってグダグダでした。山下市長の前任であった鶴原市政は確かに後の「大大阪」への布石となる業績をあげました(築港、市電敷設 等)。しかしそれに伴う多額の借金が次代の山下市政にのしかかっていたのです。加えて市政全体に蔓延る汚職と派閥抗争は、伊藤の横領事件後に一斉に摘発されていることから、伊藤などは氷山の一角であったことを物語っています。だから伊藤もあれほど大胆になっていたのでしょう。実に大阪市の汚職事件は明治43年になっても尾を引き数多くの議員、元助役を含む職員の検挙に繋がっていきます。大阪市電、京阪電鉄、阪神電鉄etc. 新聞記事を追いかけるだけでは訳が分からない状態です。

 また、脱線しました。

 伊藤晃の横領事件当時、大阪市役所には二つの派閥がありました。

 伊藤が属する藤村助役の派閥と、杉山電気課長の派閥です。

 杉山課長は一課長に過ぎないにもかかわらず大きな権力を持ち、助役、ひいては市長でさえ侮っていたと伝えられています。彼の背景を簡単に紹介しますと、北新地の杉山楼の息子として生まれた彼は京都大学にて電気工学で博士号を取得した人物です。花街の影響力と複数の有力市会議員をバックに彼は着々と市電にからむ利権を確保していきました。その利権は汚職という形になっていきましたが、結果的に明治43年に逮捕という形に落ち着きます。ともあれ当時、大阪市役所には二大派閥があり、その杉山派により告発文が撒かれ、結果的に山下市長、藤村助役を退職に追い込んだのでした。

​ 相関図を用意しましたが、文章にしにくい内容や、別項で取り上げる案件も含まれています。また思いっきり私個人の主観が入っていますことをお断りしておきます(笑)

ざっくり相関図.JPG
義援物資横領事件: 私について

伊藤晃処分までの時系列

 ここで伊藤晃の処分に至るまでの人事上の動きについて時系列でまとめてみたいと思います。主に記録で確認できた人事上の動きになります。

42.02.06 総務課検査係主任を命ず 書記 伊藤晃
42.03.02 東京市へ出張を命ず 書記 伊藤晃
42.07.13 市長付検査係主任を命ず 書記 伊藤晃
42.07.31 北の大火発生
42.08.01 大阪市掃除巡視を命じ月給十三円支給 書記 伊藤晃
     →火災後の巡視に対し月給を13円昇給と思われる。
42.08.03 臨時救護団救護係兼務を命ず 書記 伊藤晃
42.08.07 臨時救護団兼務を命ず 書記 伊藤晃
42.08.08 臨時救護団救護係兼務を解く 書記 伊藤晃
42.08.17 臨時救護部倉庫係主任兼務を命ず 書記 伊藤晃
42.09.15 臨時雇 安藤隆造 任大阪市書記月給金二十八円支給市長付検査係勤務を命ず
     →ここで安藤は臨時雇から書記として正規採用になっています。
42.11.29 書記 和住秀三郎 臨時救護部倉庫係主任兼務を命ず
     →伊藤晃の更迭を意味します。
42.11.30 和住書記、中央倉庫にて引継ぎを求めるも、伊藤、帳簿及び現品の整理のため12/2まで猶予を要求。
42.12.01 中央倉庫から吉田長祥方の倉庫に大量の白米等の移動あり。(12/5 発覚後すべて回収)
42.12.02 午前9時、和住書記中央倉庫着。伊藤は来客とのことで応対せず。安藤書記、帳簿確認を拒否。
     午後3時頃、伊藤出勤。在庫品の品の引継ぎに着手。
     午後5時。缶詰を除く物品概ね調査完了。白米等数点の現品不足を確認。その他調査は翌日持越し。
42.12.03 午前9時調査開始。伊藤午後1時まで出勤せず。安藤書記立ち合いで調査開始。缶詰類は帳簿の数より多い。合わない理由を安藤は回答せず。伊藤出勤後確認するも要領を得ず。明日(12/4)回答するとのことでいったん解散。しかし突如休職し12/4以降の調査が行えなくなった。
42.12.03 市吏員分限規程第三条第一号により休職を命ず 書記伊藤晃
     山下市長より弁済の旨指示 470円 「横領が暴露されると市役所の一大事。未発に防ぐため弁済を...」
      (妻女りん談42.12.11大阪毎日)
42.12.06 実兄、中村修永が訪問?(妻女りん談42.12.11大阪毎日)
42.12.08 告発文
42.12.08 市吏員分限規程第二条第四号により解職す 休職書記伊藤晃 (12/9付 田村重成・安藤隆造 解職)
     夜、大阪府警により拘引
42.12.10 報道。
42.12.16 臨時救護部長主事 宮島茂次郎 けん責処分

 公的な人事情報は大阪市公報で確認し、和住書記による引継ぎのくだりは「大火救護誌」から抜粋しています。また新聞報道からの情報も含めています。

公報抜粋.JPG
義援物資横領事件: 私について

伊藤晃の拘引 それから…

 伊藤が道を踏み外した原因としては、おそらく妾の​「平松たつ」に原因があったのではと思います。が、彼はどうやらそれほど困窮はしていなかったようです。彼の当時の月給は45円であったと伝えられていますので、消費者物価指数換算では現代の16万円弱となります。(白米換算でしたら22万円程度でしょうか)これに別手当、そして謡曲師匠としてのバイト代などで結構な収入があったことが後の裁判で明らかになっています。しかしそもそもが金と女にだらしがない性格的なものだったに違いありません。会計検査院時代から常に女で失敗をしている伊藤ですから(妻女りん談42.12.11大阪毎日)、的外れな推測ではないと思います。
 12/6に実兄である中村修永が訪ねてきています。中村修永は国の会計検査院課長ですからおいそれと大阪まで出てこれるものではないと思われますので余程のことだったのでしょう。おそらく処分、逮捕の方針がこっそり伝えられたものと推測します。(中村修永については別項で詳述します)
 その際、修永は女に気を付けるように、と晃に語ったと妻りんは述べています。つまりはそういうことなのでしょう。

 さて、拘引された伊藤に対し取り調べが始まります。また裏付けの聴取も関係者へ行われていきます。いよいよ全貌が明らかになる... と、いうところで伊藤の妾たつの父親、平松徳兵衛が消息を絶ちます。彼は仲士頭であり、伊藤によって救護団倉庫物品出入担当者として採用され、実質倉庫物品の出入りに関しての責任者でもありました。ですから事情聴取には欠かせない人物ですが、その平松徳兵衛が消息不明になったのです。そして4/12、生駒山中で黒焦げの焼死体が発見されたという記事が新聞に載ります。「平松」という印鑑を持っていたそうです。

 平松徳兵衛の不審死については別項で述べたいと思います。大阪府警と奈良県警、そして「殺人犯」の登場、真実を求める刑事は真冬の生駒山をひたすら登り、たどりついた真実とは... と、少し煽りますがこの横領事件を彩るエピソードになります。

 12/28、伊藤ら三人および中松市松は予審が終了し一旦保釈されます。有罪は確定しているようですが、予審(公判を開くまでもないその場の手続きで決定する裁判。火元玉田庄太郎は予審で確定しました)から地裁に回されることになりました。ちなみに保釈金は、伊藤が300円(玉田庄太郎の失火罪罰金と同額)、田村は150円、安藤は80円という金額で、中村は保釈申請をせず(金がなかったのかもしれません)拘束が続いており、堀川監獄で年を越すことになるようです。

 年が明け(明治43年)地裁にて取り調べが続き(伊藤らは自宅から通いです)、1/24に公判予定となりましたがどういうわけか2/4に延期になり(背景には大阪市乱脈に対する大掛かりな摘発がありそうです)、2/17に予定変更され、さらに2/24に延期になりました。(この間、大阪市では数多くの市会議員、また杉山(元)課長らの摘発が続いています)

 そしてまた延びて2/28、いよいよ公判が始まります。

義援物資横領事件: 私について

裁判開始

 裁かれる4人を改めてご紹介します。

 伊藤晃  大阪市役所検査係主任書記(当時)

 田村重成 大阪市役所検査係書記(当時)

 安藤隆造 大阪市役所検査係書記(当時)

 中村市松 運送業

 明治43年2月28日、伊藤晃らの公判が大阪地方裁判所において始まります。裁判は成田裁判長、濱田検事、岸本弁護士のもとすすめられますが、弁護士は影が薄いのでほとんど登場しません。なお、第一回公判では伊藤と安藤、そして中村について審議が進みます。田村は不在です。(第一回公判については3/1付大阪毎日新聞に詳しく載せられていますので、抜粋してみたいと思います。第二回後半以降も、都度の記事から抜粋、要約します)

伊藤:(罪状認否について)ボロ(衣料品)はよく覚えていないが空箱や空俵は中村市松に売りその代金は全部自分が受け取りました

裁判長:ではその金はどうしたのか。

伊藤:倉庫の会計に入れ追って精算し報告しようと思っていたが整理中に今回の事件が起こってしまったのです。

裁判長:会計出納帳簿はどうなっているか。

伊藤:そのような帳簿の備え付けはありません。また受け取った金の総額は覚えておりません。

裁判長:被告はかつて会計検査院に奉職し帳簿の整理等には精通しているはずではないか。倉庫の主任として金銭の収支を明白にすべき帳簿がないとはどういうことか。

伊藤:私は倉庫の主任として市の代理行為をし、すべての責任を有しています。ですから後に私が収支を明らかにすればそれで良いのです。

裁判長:その収支を明らかにするためには帳簿が必要であろう。

伊藤:それは田村の手で付けていたと記憶しています。

裁判長:田村の手ではなく(公的な)帳簿を備え付けなければならぬであろう。被告は三、四か月も倉庫を預かって帳簿なしに金銭の出納を行っていたというのか。被告の手で受け取った金は何に記入していたのか。

伊藤:ちょっとしたメモに書いていたように思います。また受け取った金は田村に命じて処分させたように記憶しています。

裁判長:被告は市に報告せずに金銭を勝手に処分できるのか。

伊藤:金銭を勝手に支出はできませんが「流用」なら問題ないのです。

裁判長:被告は不当不法なる取り扱いを行い「流用」の名のもとに処分するとは甚だけしからん。それでよいと思っているのか。

 伊藤はのらりくらりで裁判長はお怒りモードです。

 次いで審問は、人夫(人足)の架空領収書(カラ人件費)の件に移ります。

伊藤:市役所の慣習としてよくあることです。帳面尻を合わせるために居ない人夫を居るかのように装い支出することは珍しくないのです。しかも、今回の件では慰労会の為の支出と将来の人夫賃の不足に備えたもの(流用)なのです。

裁判長:(いいかげんにせよ。)私腹を肥やさんがためにこのような不都合を行うとはけしからん。

 その後も種々の横領に関して伊藤ののらりくらりは続きますが、総じて「後で市に報告しようとしていた」という言い訳に尽きています。

 最後に妾の平松たつとの関係について審問されると、

伊藤:それは15円ほどで囲っておきました。

裁判長:俸給45円で15円の妾を囲えるのか。

伊藤:いや、45円は月給です。別に手当てが25円あり合わせて70円です。また謡曲の稽古に350人ほど来ますから、一か月収入は120円から150円ほどありました。

 と、回答しています。だいたい当時の1円が今の5千円くらいのようですので60万円から75万円ほどの月収入というわけです。うーん、二つの家庭を持てそうな気がする。ただし遊興費はなしで。

 伊藤の審問はここで終わり次いで安藤隆造への審問に移ります。安藤は3人の中ではいちばん下っ端です。

 その安藤は「伊藤が勝手にやったことです」「何も知りません」の一点張りで、加えて「私は産まれてから今まで一度もお茶屋などへ参ったことはありません」と潔白を主張します。

 また、中村市松への審問では「伊藤より慰労会の費用が足りないので50円を人夫賃として支出する。請求書をくれと言われた」「大量の物資を別の蔵へ移したのは伊藤の指示によるもので買い取ったわけではない。伊藤と共謀して悪事を働いたわけではない」と主張し、ここで第一回公判は終了します。

 うーん、「俺は言われたことをやっただけ」ですか...

 第二回公判は3/11に田村重成への審問として行われました。ここで田村は述べます。「悉皆無根(しっかいむこん)です。全部を否認します。」すべて根拠がありません、と述べたのです。続いてボロ(衣料品)の売却に対しては、「伊藤がこんなものを置いておいては衛生面で良くないから売ってこいと言われたから中村市松に売ったのです。売った代金は何月何日襤褸売却代金として伊藤に渡し、伊藤が手提げ金庫に入れたのを見ています。そこから先は知りません。てっきり市に納付したかと思っていましたのに横領していたとは」と語り伊藤を睨みつけます。さらに人夫賃の件については「確かに慰労会を開くために中村市松に請求書を要求しました。悪いこととは思いましたが上司である伊藤の指示なので仕方なく従いました」と、すべて伊藤の犯罪であることを強調します。

 さらに伊藤の審問時には端折りましたが弁当代不正受給の疑いもありました。これについては面白い発言をしています。「弁当代の件については最初は知りませんでした。しかしかつて市長付秘書係大谷書記が伊藤と仲が悪く、自分に伊藤の悪事を報告してくれと言われていたことから中村市松に相談しますと、弁当代の受取を二重に書かされたという話を聞いたのです。そこで初めて不正を知りました」と、とんでもないことを言い出したのです。これを聞いていた伊藤の顔色が変わります。田村は自分はスパイであり、大阪市のために探っていたのだという主張です。公判は第三回へ続きます。

 3/28、第三回公判が行われました。証人として大原市収入役が呼ばれ市の会計事務取扱について証言します。それは吏員(職員)による公金の扱いは必ずしも即時の精算を要せず、会計年度末(3月)または決算報告期(5月中旬)までに行えればよいという慣例であり、伊藤の主張をある意味裏付けるものでした。また伊藤と大谷書記との確執は知っているかの質問には「事実は知らないが、そのような噂はある」と答えています。

 続く証人は田村から伊藤と確執があると言われた大谷書記でした。彼は言いました。「昨年(明治42年)9月頃に被告である田村重成に命じ伊藤の不正行為を調査することを指示した」

 この時、伊藤は腹立たし気に大谷の後姿を睨みつけていたと記事には書かれています。

 次いで裁判長が、市役所内での二つの派閥争いについて尋ねますが大谷書記は「そんなことはありません」と受け流しています。

 第三回公判はここまででしたが、42年9月の段階で伊藤はライバルからターゲットにされ、それは対立する派閥の、杉山派に伝わっていたことがわかってしまいました。もともと臨時救護団(部)そのものが藤村派の組織でしたから、その中で伊藤がターゲットに選ばれたのは、隙のある人物だったことを物語っています。(しかし、大谷書記が杉山派であればつじつまが合わないことがあります。告発文の内容では大谷は藤村派であるはずです。ここらへんは個人の好き嫌いもあるのでしょうが、蝙蝠的な人物もいたということなのでしょう。)

 余談を挟みます。

 大阪市公文書館に残されている北の大火に関する書類は非常に多いのですが、これは緊急事態において当時の職員(吏員)がいかに職務に忠実であったかを物語っています。大火当日の7/31付、8/1付の決裁文書が残されていますが、緊急時でもきちんと文書を残すことは素晴らしいことだと思います。もちろん後から文書を整えた、決済印は後閲で済ませた、ということもあったでしょうが生の記録に現代でも触れることができます。

 また膨大な義援物資が多くの市民から寄せられていますし、また分配も行われています。その記録も詳細に(ある場合は殴り書きになっていますが)残されています。伊藤の言う「後から... 年度末までに...」というのが決して通常の慣例でなかったのは明らかです。

 今回、調査するにあたり物資の分配関係に細かく目を通しましたが、伊藤の押印を発見することはできませんでした。残された資料に「たまたま」なかっただけなのかどうかはわかりませんが、ちゃんと仕事をしていたのか怪しく感じます。もっとも伊藤の痕跡が残された公文書類がほぼないのは不思議でした。事件の結果、臨時救護部長主事 宮島茂次郎のけん責処分に係る決裁文書の中に伊藤の名は見られましたが、それ以外は大阪市公報の人事情報くらいにしか見出すことはできませんでした。これは事件以後、残す書類をチョイスしたためなのでしょうか。大阪市大火救護誌では伊藤の事件を「市政史上百年遂に拭うべからざる大汚点」と表現している程です。


 なんにせよ、伊藤に関する詳細な記録(賞罰関係含め)は見出すことはできませんでした。

閑話休題。

 4/8、濱田検事により求刑が行われました。伊藤晃 懲役三年。安藤隆造、田村重成 各々懲役二年。中村市松 懲役一年という内容です。これに対し弁護側は無罪もしくは執行猶予を求め、次回判決ということで閉廷します。

 ただ弁護側の弁論中、この事件はそもそもが藤村派と杉山派の軋轢がきっかけで発覚したものであり、市役所内の軋轢に対する市民のガス抜き的な意味合いで(警察は)検挙した、新聞記事に引っ張られる形で(世論に迎合して)扱っているというようなことを述べたところ、濱田検事は激怒モードになってしまいます。新聞記事の差し止めも指示しながら進めているわけで、新聞記事リードで捜査しているわけではないということです。

 確かに伊藤を拘引する前後の動きは、明らかな警察の介入を感じます。もしかすると実兄中村修永へも警察からリークがあったのかもしれません。

 そして4/18、判決が下されます。

 主文は、以下のとおりです。

 「被告晃を懲役二年に処す。

  被告重成、隆造、市松は各無罪。

  押収物件は各差出人に還付す。

  公訴裁判費用は被告晃の負担とす。」

 ちょっと待てえ!!

 と思ったのは私だけではなく濱田検事はただちに控訴手続きに入ります。

 また伊藤晃も翌日控訴します。無罪を勝ち取れると踏んだのか...

 なので、裁判は続きます。

義援物資横領事件: 私について

控訴審(もうちょっとだけ続くのじゃよ)

 舞台は控訴院に移ります。控訴院とは現在の高等裁判所に該当し、昭和22年までその名称でした。

 明治43年9月30日午前9時半に開廷した控訴審は望月裁判長および山田検事により担当され、まず4被告の罪状否認で始まり証拠調べが行なわれました。そして昼休みを挟んで午後3時に閉廷となります。以後、数回公判は行われたようですが、だんだん世間の関心も薄れてきたのか記事が見当たりません。

 10/24、これまで伊藤は田村のせいであると主張し、田村は田村で伊藤のせいであると主張を続け、つまりは睨みあっていたのですが、この日、山田検事は4名とも有罪の旨を論告します。「だいたいこの事件は伊藤が首謀となり、田村が副として助け、安藤隆造と中村市松は手足となりて働きたること種々の証拠にて明白なり。しかるに田村は中途怖気づきたる結果、忠義顔して一切を監督官に密告したるものにてその卑怯は唾棄すべし。されば田村、安藤、中村三人が第一審にて無罪となりたるは妥当を失す。よろしく相当の処刑ありたく、また伊藤の懲役二年も軽きに失する故、なお一層の重刑を課せられたし」

 田村の行動を卑怯にして唾棄すべしと言い切ってしまう検事の感覚は現代とは少し違うのかもしれませんが、まあ、役所の多くが士族で成り立っていた明治時代ですので、まだぎりぎり武家の気風が残っていたのでしょう。(もっとも田村自身も甘い汁は吸っていますので、同情の余地などは微塵もありません)

 さて、事件はどんどん風化していったようです。この論告ののち、10月下旬には判決が下りているはずなのですが、その記事が見当たりません。さらに伊藤らは控訴審判決に対し不服としてさらに上告したようです。

 で、最終的に明治44年3月31日上告が却下され刑が確定しました。


 伊藤晃 懲役二年。

 田村重成 懲役三か月

 安藤隆造 懲役六か月

 中村市松 懲役四か月

 少し軽いような気もしますが傷害事件でもないのでこんなところなのかもしれません。(法律には詳しくないので妥当かどうかは... よくわからないのです)

 とまれ、伊藤晃たちは即日に大阪監獄所(堀川監獄所)へ収監されました。

 大火義援物資横領事件は一応の結末を迎えたのです。

 その後の伊藤晃の足取りは不明です。出所後どうしたのか。郷里へ帰ったのか、別の土地へ流れていったのか、前科がつけば流石に公職にはつけませんが、謡曲の技能がありますので地方へ行けばなんとか暮らせそうな気もします。妻や娘は付いていったのでしょうか。時代が時代なので付いていかざるを得なかったのかもしれません。

 そうそう、伊藤らが収監された大阪監獄所とは現在、扇町公園になっています。心霊スポットだという噂もあったりなかったり...

義援物資横領事件: 私について
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