火元「玉田庄太郎」について
記録的な大災害となった「北の大火」にも火元があります。
火元になってしまった「玉田庄太郎」に関するエピソードです。
火災の発生
明治42年7月下旬の大阪は炎天下が続き乾燥しきっていました。人々は汗を拭きつつ毎日を過ごしていたものと思われます。(エアコンなんかなかったですからねえ)
そのような中、数日続いた徹夜仕事もひと段落ついた7月30日宵の口、大阪市北区空心町二丁目七十番地のメリヤス製造業者、玉田庄太郎は仕事を切り上げました。数え年32歳の庄太郎は、妻(千代 24歳)と娘(文子 4歳)、そして母(りき 61歳)との4人暮らしで、住み込みの従業員2名(木本辰蔵 18歳、丸橋善兵衛 18歳)と共に順調に商売を続けていたようです。(通いの従業員もいたようですが彼らのことは割愛してもよいでしょう)
その日、午後九時頃には従業員2名が二階の部屋へ向かい、午後十時頃に庄太郎と千代が文子と共に奥の座敷で休みました。母のりきは火の始末をしたのち離れの二階へ向かいますが、従業員2名のいる方を見るとすでに眠っているらしく明かりは消えていました。
おりしも東からの風が強い日でした。
消し忘れたランプがひとつ、ゆらゆらと揺れていました。
7月31日(土)、バチバチという音で目が覚めたのは庄太郎でした。彼には時間はわかりませんでしたが午前四時過ぎであったようです。彼の目に飛び込んできたのは台所から店にかけてが一面火の海になっている光景でした。
「火事じゃ!」
大声で叫び裏口から妻子と共に脱出した庄太郎でしたが、母親が取り残されていることに気付き炎の中に取って返し救出しています。なお従業員二名も「火事じゃ!」の声に目が覚め一階に降りると既に火の海となっていたのですが、こちらも裏口から脱出に成功しています。
その後、妻と娘を妻の実家である東区常磐町一丁目に、母を北区南同心町の同業者の家へとそれぞれ預け、ふらふらと火元に戻ったところを捜査中の刑事に保護され回生病院へ収容されますが、そこも火の手が回り中之島の大阪ホテルへ避難した後、東区の偕行社に改めて保護されます。そして8月1日、中之島公会堂に設置された北署仮事務所へ自ら出頭し取り調べを受けることになりました。なお、大阪毎日新聞8/1の紙面では「火元の主人発狂」と小見出しをつけられていますが、確かに茫然としてはいたかもしれませんが意識はしっかりしていたようです。
警察の取り調べ
8月12日、取り調べが始まりました。検事の質問に対し、庄太郎は素直に 「母によるランプの消し忘れの可能性がある」「中庭のランプが原因と思われる」 旨の陳述を行い、検事は失火罪として起訴する手続きに入りました。
8月20日午前十時、大阪区裁判所での公判が始まります。
しかし...
ここで玉田庄太郎はとんでもないことを言い出したのでした。
曰く 「自分は回生病院に入院した時点で、新聞記事により初めて自分が火元扱いにされていることに気が付いた。自分が火元かどうかはわからない」「ランプは確かに消した。火元であるはずがない」「どこからかのもらい火か、または隣家の路地からの放火だ。いや盗賊のせいかもしれない、そっちを調べてくれ」
...と、逆上しながら言ったのです。(今風に表現すると「逆ギレ」です)
傍聴人は大騒ぎ、検事大激怒。(そりゃそうだ) 初公判は一時間ほどで閉廷しました。
そうなると始まる世間のバッシングは今も昔も変わりません。検事宛ての匿名の投書には 「十時ごろ寝たと言っているが嘘だ、零時過ぎまで起きていたのを知っている。また、あいつは日ごろから評判が悪い、しっかり調べてください」 というものや、玉田家焼跡には 「火元はここなり」 と書かれた看板が立ち、また、避難先の妻の実家にも昼夜かまわず戸が叩かれ 「放火してやろうか!」 と罵りの声が多数おこります。
いやいや危機管理の完全な失敗例であり、それに対する世間の反応。百年経っても人は全然進歩していないことがよくわかります。
公判の行方
さて、玉田庄太郎の言い訳のなかで 「隣家の路地からの放火」 がありました。それは北隣の浅利弘太郎(あさりひろたろう)の家を指します。つまり暗に浅利の放火であると言っているのです。
二人の日ごろからの人間関係はわかりません。とっさに出た言い逃れがたまたま浅利に向けられただけかもしれません。また、この時点で行方不明扱いであった浅利は焼け死んでいる、と考え罪を押し付けようとしたのかもしれません。
いずれにしても浅利にすれば迷惑この上ない話です。
8月24日午前、浅利弘太郎は裁判所へ出頭し、いつでも召喚に応じる旨を伝えます。
8月31日、第二回公判が始まります。検事側は証人として北隣人の浅利弘太郎、および玉田従業員木本辰蔵を証人としました。
結果、判事は庄太郎に対し 「二人の証言からあなたの言い分はまったく根拠がない!」 と詰問します。
さらに、焼失戸数一万一千三百六十五戸、損害金額千五百六十八万三千八百十一円を計上した池上警察部長による被害取調書、死傷者数などの朗読を経て、流石の庄太郎もついにはうなだれます。
そして検事がダメ出しの一発を浴びせます。
「そもそも警察署での取り調べではランプの消し忘れを認めておきながら、公判においてそれを否定したが、しかし証人らの証言からランプの消し忘れは明白である。
だいたいメリヤスを扱う人間として火の始末は最も注意を払うべき事柄ではないか。それを年老いた母親に丸投げし、多くの人々を火災に巻き込んだ。しかもそれを反省もせず人々に済まないとも思わず、まさに言語道断、できる限りの極刑が相応しく刑法第116条にてらして罰金三百円が妥当である」 と言い切ります。
激怒感が伝わってきます。ちなみに当時の三百円を現代にあてはめると、消費者物価指数による幣価値換算では105万円程度、また白米換算で120万円程度になります。まあ、失火罪ですからね、そんなものでしょう。しかし明治の司法も情ではなく法にしっかりと従う(求刑)ところは流石だと思います。
判決
そして9月4日、大阪区裁判所で判決が下ります。
「被告庄太郎を罰金三百円に処す。但し、罰金完納すること能わざる時は二百日間労役場に留置す」
(ちなみに現行の刑法は明治40年に成立したそうです(旧刑法で116条を検索したら大逆罪なんか出てきて驚いてしまいました)。また、民法には失火責任法なるものもあって、重過失でない限り損害賠償の責任を負うことはないそうです。庄太郎のケースは重過失だと思うのですが、当時の判断では結果、どうなったのでしょうかねえ。当時の新聞記事(大阪毎日・大阪朝日)にはこれ以後、玉田庄太郎は登場しません。)
ちなみに判決文にはきちんと玉田の言い分も記載されており、それに対する反証も語られています。なお、「大阪市大火救護誌」には、その全文が記録されています。
その後の庄太郎についてはわかりません(罰金を納めることができたのかできなかったのかも含めて)。また、調べる気もありません。
重大な過失とはいえ「過失」です。「故意」ではありません。また、言い逃れは酷いものだったとはいえ、鎮火後、日を追って伝わる被害の大きさから現実逃避したくなる気持ちもわからなくはないのです。
夢なら醒めろ、と何度も思ったことでしょう。朝、めざめるたびに夢でない現実に打ち震えたことでしょう。
多分に同情できるのです。(と、言いながら100年後に実名でほじくり返す自分自身に矛盾は感じています)